第1回:ヲタ芸と祈り【KWOT!】
ヲタ芸と祈り。
そう言うと、また変なことを考えていると思われるかもしれない。
しかし、私は結構真面目に、この二つに共通項があると思っている。
ありがたいことに、最近「ヲタ芸」というものについて真剣に語り合う機会が増えてきた。
その中で、ヲタ芸そのものの価値や魅力を様々な角度から掘り下げていくことができていると感じる。
ある音楽関係者は「ヲタ芸には、なんとなく泣きたくなるような情緒がある」と言っていた。
「泣きたくなる魅力」——うまく言語化できないけれど、少し分かる気がする。
ヲタ芸の激しい動きや一生懸命さか。それとも、サイリウムの光か。
私は、その正体は一種の「祈り」に近い要素なのではないかと考えている。
ヲタ芸が日本の文化であると言うには、それ相応の文脈や精神性が必要だというのが私の持論だ。そして、この祈りの感覚が、それを担う可能性があると思っている。
ヲタ芸プレイヤーなら共感してもらえるかもしれないが、ヲタ芸を打っている時の感覚は、ただひたすらに自分の体の感覚に集中し、光の軌道と一体化し、音楽と一体化する。(複数人打ちの場合は、仲間たちとも一体化する。)それは、一種のゾーン状態に近い。
心理学者のミハイ・チクセントミハイは、著書『フロー体験 喜びの心理学』の中で、人が活動に没頭する状態を「フロー」と名付けました。フロー状態では、時間の感覚が歪み、自己意識が薄れ、活動そのものが目的となります。ヲタ芸における没入体験も、このフロー状態と共通する要素を持っていると考えられます。(AIさんより)
この感覚は、実は瞑想に近い状態なのかもしれない。
瞑想では、過去や未来の雑念にとらわれず、「今この瞬間」に集中することが重要視される。「今、この瞬間」——瞬間の中の瞬間に存在する「今」に集中して生きる、というのが禅の思想だ。
ヲタ芸に話を戻すと、ヲタ芸を打っている瞬間は、未来の悩みや過去の出来事を気にすることなく、ただ「今この瞬間」に集中して体を動かす。その真っ直ぐな集中状態、ひたむきな姿勢こそが、見ている人に共感を与え、どこか泣きたくなるような魅力に繋がっているのではないかと想像する。
さらに、このひたむきな姿勢に加えて、ヲタ芸のルーツである「捧げる」という精神性も、ヲタ芸を語る上で欠かせない文脈になるだろう。
ヲタ芸は元々、アイドルに捧げる動き、推しに捧げる動きから始まった。「捧げる」「応援する」という精神性は、日本文化の様々な文脈に接続する。
例えば「茶道」だ。
茶道では、亭主が客のために心を込めて茶を点て、客は亭主の心遣いに感謝しながら茶を味わう。この行為は、単なる飲食の儀式ではなく、亭主と客が互いを尊重し、感謝の念を伝え合う、精神的な交流の場であると言える。
この茶道も、いわば「捧げる」という精神性を孕んでいる。
ヲタ芸の「捧げる」という精神性と、茶道の「捧げる」という精神性。この二つは正確には違うものかもしれないが、その奥底に存在する核となる思想の部分は似通っているのではないか。
そして、その核となる思想こそが「祈り」なのではないか、というのが私の考えだ。
ここでの「祈り」は他者の幸福を願い、自己を超越した存在との繋がりを求める、普遍的な人間の精神活動のこと。
私がとても好きなサカナクションの山口一郎さんは、歌を祈りのような感覚で歌うと語っている。
この「祈り」という言葉は、様々な日本文化の根底に根付いている、他者を思う優しさの正体ではないだろうか。
日本は無宗教の国だと言われることが多いが、思想がないと人は生きられない。お金持ちになれば幸せになれると信じたり、最近では推し活も一種の宗教の形と言えるだろう。
そして、その独特な宗教体系の日本の一番奥底にあるものが「祈り」なのだ。
ヲタ芸にも、例に漏れず「祈り」が潜在しており、時には涙を誘うほどの魅力に繋がっているのではないかと考える。
もちろん、大前提として、説得力のある技術が備わったクオリティの高いヲタ芸に限る話だ。技術が未熟であったり、自己満足に終始したりするパフォーマンスではなく、高度な技術と表現力を持ち、観客の心を揺さぶるようなヲタ芸は、単なるパフォーマンスの域を超え、人々に感動と希望を与える力を持つと思う。だからこそ、架空の究極で完全無欠な「ヲタ芸」の形を目指すべき「道」とする、新たな領域「輝道」へと繋がっていくのではないかと考えている。
結論として、ヲタ芸は、単なるパフォーマンスではなく、日本文化に根ざした精神性を体現するものであり、その奥底には「祈り」にも通じる普遍的な人間の精神活動が潜んでいるのではないかと、私は考えている。
ヲタ芸は、没入体験、捧げる精神、他者への思いやりなど、様々な要素を通じて、人々に感動と希望を与える力を持っていると思う。

